身体を整えるのは当たり前
【土台としての身体をつくる】
苦しんでいるのであれば、少しでも楽にしてあげたい
不自由なのであれば、少しでも自由に動けるようにしてあげたい
不便なのであれば、少しでも解決できたらいい
不健康なのであれば、少しでも健康的になってほしい
そう思っている。
治ればいいなと思う。
健康的な生活を送るためには、「食べる・寝る・排泄する」ことを整える必要がある。
それが整わない原因が、一次障害なのであれば治す。
一次障害を治すために必要なことを探す。
動きの発達で抜けているところがあれば埋める。土台である身体を育てる。
生活リズムが崩れているならば、整える。
早く起こすことから始めても良い。
医療的な治療が必要ならば、それもする。
歯が痛いことを訴えられなくて、多動になっていたり、かんしゃくを起こしていたりすることもある。
そういう視点とケアは不可欠である。
よく噛んでいないなら、噛めるようにする。
偏食があったら、嫌いな物を好きになれとは言わないが、一口くらい食べられるようにしたい。
苦手なことから逃げるということだけを学んでほしくない。
そもそも身体が整ってくると、治ってくることも多い。
ここに関しては、口の中の動きの問題など視点が沢山あるが、ここでは主旨とずれるので書かない。
眠れないならば、力を弛めるなどの方法を使う。
排泄も、力むことと弛むことが必要だから、それができるような身体にしていく。
多動をコントロールできるようにしたいし、他害や自傷はしなくて済むようにしなければならない。
多動状態であることは、トイレでもジッとしていられないし、食べている最中に注意がそれたり、立ち歩いてしまうし、当然ながら動いていると眠れない。
「一次障害だから治らない」と言われても、納得できない。
「自閉症だから多動」と言われても、納得できない。
『障害があるから仕方ない』というのは嫌いな日本語。
そういう言葉で思考停止しない。
アプローチは日々進化している。
〇〇式などの一つの方法にこだわって、進歩しないことは、思考停止である。
食事、睡眠、排泄が整うことが大切なのは、障害があってもなくても人間なのだから、当たり前。
その三つを調子良くするためには、身体を整えないといけないのも当たり前。
この当たり前に至らないというのは、"自閉症"という特別なものとしてい見ているからではないだろうか。
自閉症の自閉症の部分ばかりに注目しているからではないだろうか。
十亀史郎ドクターは、1985年、亡くなる直前に書かれた「自閉症児・者における心の発達」という題の文章の最後で、
「自閉症児を特別なものとして見るのを止めたとき、彼らがよく見えてくる」
と言っている。
特別なものとして見るのを止めれば、身体を育て整えることは、当たり前のことなのである。