つながっている感じがないと状態が良くならない
【何とかしたい、治したい】
こだわって止まらない。
それが必死に「見える」と、好きでやっているように「見える」。
好きでやっているように「見える」から、止めない。
しかし、施設の外に出てしまったり、誰かを叩いてしまったり、売り物に手を出してしまうことは止めねばならない。
一定の範囲から出ないようにして、眺めている。
隣で同じようにやってみるが、関心を向けられる様子はなく、つながっている感じがない。
多動で走り回っている。
楽しそうに「見える」から止めない、止めたら大騒ぎになったりする。
走り回っているのを眺める。
隣で走ってみても、つながっている感じがしない。
つながっている感じがしない親御さんには孤独感がある。
もちろん、そういう子どもも一見楽しそうに「見える」だけで孤独である。
つながりをもちたくないと思っているわけではない。
必死に「見える」、けれど、その必死さは、とても苦しんでいるように「見える」。
この状態は大変そうだと感じ、「なんとかしたい」けれど「どうしたらいいのか分からない」と思ったことを以下に書いた。
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『自閉症の人が与えてくれた宿題 1.出会い』
コーヒーにこだわり夜も眠れなくなった人、結局どうなったか。
その夜の翌日か翌々日、職員会議が開かれた。
「入院させて投薬調整をしてもらう」ということになった。
(中略)
『他に(入院以外に)何か方法はないのか?』
『何のための支援なのか?』
『でも、自分では(支援方法が)わからない(どうしたらいいのかわからない…)』
「自閉症の人の、このわけのわからなさをわかりたい」と考えた。
「なんとかならないのか、支援方法を知りたい」と考えた。
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ここからずっと、より良い支援を考え続けている。
流派にこだわらずに、良いものは取り入れる。
その中でこの本に出合った。
『限界を超える子どもたち-脳・身体・障害への新たなアプローチ』
アナット・バニエル (著), 伊藤 夏子 (翻訳), 瀬戸 典子 (翻訳)
この本の訳者の一人の伊藤夏子さんが書かれている。
p.250~
伊藤さんは、『引っ越しを機に』、『重症心身障害者とよばれる方たちが利用する施設で』勤務を始められる。
主な仕事は、『利用者の食事と排泄の介助』である。
ここで最初に担当した利用者さんが登場する。
『最初に担当した二十代の男性は、腕や脚が小枝のように細く、つねに身体のどこかをカクカクと動かしていました。目は焦点が合っていません。声をかけてみても、手を握ってみても、こちらに注意を向けることはなく、カクカクと動きつづけています。
彼は片方の手にミトンをはめられていました。理由は、指で自分のまぶたを突っつき、眼球を押しだしてしまうからでした。
なぜ彼はそんなことをするのか?痛くないのか?何を感じ、考えているのだろう?彼と心が通じることはないのだろうか?』
この最後の文に、非常に共感する。
僕の初心に帰る気持ちである。
そして、伊藤さんは、
『手当たりしだい、日本語の書籍や専門誌に目を通』されたが、『答えは見つかりません。』
そして、『英語でインターネットを検索し、たどりついたのが』『限界を超える子どもたち-脳・身体・障害への新たなアプローチ』の原書でした。
彼と心がつうじるようになりたいという情熱にも敬意を表します。
『原書を読み終えた』伊藤さんは、
『この男性の食事を介助するとき、おかゆをのせたスプーンを口の手前で止めてみ』た。
『十五秒ほど待ったでしょうか。カクカク動きつづけていた身体が止まりました。目は天井を向いています。「おやっ」という表情です。』
そして、
p.251
『出会って九か月目にして、初めて、それまで遠い世界にいるとしか思えなかったこの男性と「つながった」と感じた瞬間』を経験されます。
この経験があるまでは、つながっている感じがしていなかったということである。
支援をしている職員さんだけではなく、我が子とつながっている感じがしないという親御さんもおられると思う。
何かをしようとしても応答(やりとり)している感じがない。
関わろうと近づくと、サッと走っていってしまう。
拒否しているように「見える」。
つながり方が分からない。
だから、つながり方を知りたいのだろうと思う。
僕は知りたかった。
「つながっている感じ」のことを、「一緒」という言葉で表現することもある。
「一緒にやっている」というのは、ただ隣にいるというのではなく、つながっている感じがあって、応答があって、一緒に何かをしている状態のことを言っている。
「一緒」という言葉以外には、「やりとり」という言葉もよく使う。
「やりとりが大事だから」
「やりとりになっているかどうか」
なぜ、こういうことを言い続けているかというと、一緒にやっているという実感がない場合、改善が見られないからである。
改善しないときというのは、つながれていないのである。
そして、やりとりになっていないとき、職員さんにはシックリこない感じがあるだろうし、親御さんにとっても歯がゆい状況だと思う。
それを繰り返していても、職員さんはモチベーションが上がらないだろうし、親御さんも辛いだろうと思う。
そういう風に付き合われている本人も楽しくはないだろう。
僕はそう思う。
課題は、
①つながろうとするか否か
自己満足の支援になっていないかどうか。
やりとりになっていないまま、勝手な働きかけ、もしくは、勝手な解釈による(良いことをしていると思っている)放任になっていないかどうか。
独りの時間は不要だとは言わないけれど、ずっとそれでいいかどうか。
障害児者の当人が本当につながりを求めていないと言い切れるのかどうか。
僕は、孤独は嫌だろうし、つながりたいと思っているはずだと考えている。
ただ、つながりをもとうと試行錯誤はしてきたけれど、何度も何度もうまく行かないと諦めてしまうかも知れない。
また一緒にやろうと思える活力は「つながった!」という実感から来る部分もあるだろう。
親御さんが孤独にならないように、子どもが孤独にならないように、つながった実感をもてるように指導している。
②つながっているか、つながっていないか、その違いに気づけるかどうか
『もういつものことで…』と慣れてしまったり、ぼんやりと眺めていたり、諦めかけていると、せっかくの瞬間に気づけない場合もある。
「今のよかった!」
「今、子どもがこっちを見た」
そういう瞬間に気づき、瞬間を捉えてもらうことも大事である。
③どうやって、つながりを持つか
『もう色々とやってきたんです…』と言っても、やはり支援や子どもとの付き合いの引き出しが少なかったり、同じことをしていてもちょっとしたコツをつかむだけでつながれるということがある。
引き出しを伝え、コツをつかんでもらうことが大事である。
コツをつかんで、つながれるようになると、
孤独でなくなる
親子で一緒にやっている感じが出てくる
子どもが生き生きしてくる
問題行動が減る
子どもの選択肢が広がる
職員さんは仕事のモチベーションが上がる
利用者さんも生き生きしてくる
問題行動が減る
僕は、個別指導や職員研修で、運動や作業を通して、またちょっとしたやりとりの中で、どうやって「つながり」をもつかを伝えています。