行動障害に陥ってしまっても「できた」体験を
【行動障害を改善するために大事なことは】
1.自尊心を高めるために
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『治療のこころ(巻17・平成25年)』(著:神田橋條治)
「PDSDの治療」
p.156
精神療法の中でいちばん大事なのは「Can体験」「できた体験」。(中略)筋肉行動によって意志的な行動ができている動物は、ぜんぶ「Can」がいちばん精神療法ですよ。(中略)何かできることを探して、何でもいいから。左手でパンを握り食うとか何でもいい。本人が「ああ、できた」と思うことを、ひとつでもふたつでも思いつたら、それが精神療法。なんかかんか優しくして、いい子いい子やらしてあげることではない。そんなことは哀れな人にする精神療法。やっぱり人間は、何かが自分でできたという体験を、なんか内に抱いて生きてゆく。それが精神療法です。
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自尊心が高める、そのために必要な体験の一つとして「できた!」という体験がある。
何かが自分で「できた」という体験を、自分の誇りにして、それを心の内に抱いて生きていく。
それは、自閉スペクトラム症であっても同じであり、障害の有る無しに関係がない。
自傷や他害、大声で困っていて、不穏にならないように、ストレスがかからないように、そーっとそーっと、そういう方法を取る場合があるが、そればかりしていては、その子どもは「できた」体験ができない。
腫れ物に触らぬ神に祟りなしのような生活では、充実した・張り合いのある生活にならないし、自分を誇りに思う心を持てないままなのである。
それでは、状態が良くならない。
「したいようにさせているのに状態が変わない」のは、当たり前である。
大声を出したり、自傷も他害も減らないのは、つまらない生活をどうにかしてほしいという訴えだ。
もっと充実したい・張り合いのある生活をしたいのである。
何かが自分で「できた」という体験には、それなりの努力が伴う。
まったく努力もなくできてしまったら、「できた!」とは思えないだろう。
そして、自閉症の人も人間であり、社会の中・人の中で生きているのだから、この「できた」ということを認めてもらいたい。
しかし、ちょっとでも努力が必要な課題になった途端に、パッと逃げてしまう。
やり始めたとしても、少しでも難しいような感じになると、やめてしまう。
ここで、もうひと頑張りすることが「できた」につながるのであるが、ここで終わってしまっては「できなかった」になってしまう。
「イヤだったのね」
「やりたくないのね」
「そうか、そうか」
と気持ちを汲み取ってあげているようであるが、実のところ、子どもに自尊心をなくしてしまう経験をさせてしまったことになる。
<させている側>は、その瞬間の泣きや大声に耐えられないなど<させている側>の都合もあるが、<している側(してしまった側)>のショックも大きいのである。
「イヤなことから逃げられて良かったね」というのは、その子の将来を考えると無責任である。
一見、難しい課題から離れてホッとしたような顔をするかも知れない。
しかし、自分への自信を失い、自分を誇りに思うことができなくなっていく。
こちらは、そういう人の再挑戦を後押しし、「できた」という体験になるように適切なステップを考え、「できた」となるように支援しなければならない。
その瞬間のニーズに応えることに甘え、本人が知らない先にあるニーズ、後から「あれをやっていて良かった」と思えるニーズに応えられる取り組みをしていかなければならない。
行動障害に陥ってしまうと、身体へのアプローチにしても、努力をほとんど必要としない課題に対しても、そもそも向き合ってやれない、何もさせられない、という場合がある。
これも「好きではないのね」と体験する前の段階で取り組むことをやめてしまう。
そもそも、それが気に入るかどうかやってみないと分からないし、その瞬間にそれが気に入るとも限らない。
「半信半疑だけれども、この人が言うならやってみよう」という態度をもってもらわなければならないし、そのためには「今すぐ分からないだろうけど、こっちはこうした方が後々いい生活につながるからやろうね」と思わせるだけの迫力がなければならない。
だからこそ、「うまくいったな」と感じてもらえるように、先手を打てることに注意を払わねばならないし、失敗させてしまわないように付き合っていく必要がある。
行動障害に陥ってしまった子ども(成人)に、「できた」体験をしてもらうことが仕事である。